約1年前、最初は、普通のゆるやかな下り坂道で転んだり、つまずいたりする程度だった。
ご飯を食べると、口からよだれを止められなくなり、徐々に手足の筋肉が動かなくなっていき、外出先で急に漏らしてしまったこともあったそうだ。
今は、歯がほとんど抜け、口のまわりはしわしわになり、息を吸うのも苦しそう。顔の筋肉も動かしづらくなり、会話もつらそうだ。
先日は誤嚥性肺炎を起こして食べられなくなり、点滴で命をつないだ。
これは、私の父に起きている現実である。
薬は朝昼晩と何種類も。
けれど、良くなっているとは到底思えない。
むしろ、薬を飲み続け、点滴をすることで、人生の最後の瞬間をずるずると引き延ばし、そんな「苦行」のような日々で、最後の日々を苦しく長く過ごさせてしまっているのではないか?
――そんな疑問さえ浮かぶ。
自分で飲み込めなくなったら、動物だったらそのまま死ぬ。人間も動物なのに、点滴をして胃ろうをしてまで生かされ続けるのだろうか、と考えると胸の奥が重くなる。
多少マシになるかもしれないリハビリをしても、寝返りひとつ自分でできず、下の世話をしてもらい、ご飯も流動食を食べさせてもらい、薬を飲み続け、最後は、点滴をして胃ろうをして寝たきりになって、心臓が止まるまで何年も待つ。
これが、人間らしい最期なのだろうか?そして、この様な最期が、本人にとって望む姿なのだろうか?
日本では保険診療で1割負担で受けられる治療も多く、よく考えないまま、薬や治療をスタートできてしまう制度でもあるのだと思う。
確かに平均寿命には届かない75歳。しかし「もう75歳、十分生きた」と言っても過言ではないのではないか。
医療は進歩し、父の様な状態での「長生き」が可能になった一方で、ピンピンコロリと逝くことが難しくなった。
そして、その苦行のような延命に何百万もの税金が使われている。
いったい誰のための「長生き」なのか。
平和な日常の中で、私たちは「死」を直視する機会が少ない。
人がどう年老い、どう最期を迎えるのか――目を開いて考える時。
私にとって、それはもう他人事ではない。