ブラッシュアップライフ

人はどう死ぬのか 久坂部羊(著)

人はどう死ぬのか (講談社現代新書 2655)

誰にも訪れる「死」。しかし、実際にどのようにして死んでいくのかを知っている人は少ない。人がどのような末期を知らないと、虐待に等しい終末期医療に苦しみ、悲惨な死を迎えることになりかねない。肉親が迎えたとき、そして自ら死を覚悟したとき、どのような死に方を選べばいいのか。在宅診療医として数々の死を看取った、作家の久坂部羊氏が、人がどのような死を迎えるのかをリアルに描き、安らかな死を迎えるために、私…

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1. 一度きりの「死」に備えるということ

誰しも、できることなら安らかに死を迎えたいと思っているはずです。しかし、死は人生でたった一度きりの“本番”であり、練習もやり直しもできません。ならば、自分の死に備えるために、他の人の経験や例から学ぶことが、唯一できる準備ではないでしょうか。

2. 現代社会が「死」を遠ざけている

医療の進歩によって「死」は病院の中に押し込められ、私たちの目から遠ざけられています。かつては自宅で家族に看取られて亡くなるのが当たり前でしたが、今では死に立ち会う機会すら少なくなり、「死を語ること」そのものがタブー視されるようになっています。

3. 「生」だけを肯定し、「死」は否定される

その結果、「死」はどこか現実離れした、得体の知れない恐怖となってしまいました。そして私たちは、「死は絶対に避けるべきもの」という価値観に、無意識のうちに支配されているのかもしれません。
しかし、耐え難い苦痛だけが続いている状態で、治る見込みもほとんどない中でも、「頑張れ」「生きろ」と励ますことが、果たして唯一の正解なのでしょうか?
「生きること」が絶対的に善で、「死ぬこと」が絶対的に悪という前提で、私たちは思考停止してしまってはいないでしょうか。

4. 延命治療がもたらすもの

“助かるかもしれない”という希望があるからこそ、多くの人は病院に駆け込みます。しかし、その希望が叶わなかった場合、「助からないけれど、死ねない」という苦しい状況が待っています。延命治療によって、意識もなく、身動きもできず、チューブに繋がれたまま「生かされる」状態になるのです。

5. 両立しない“希望”と“拒否”

「少しでも助かるなら治療は受けたい。でも、悲惨な延命治療だけは嫌だ」——この願いは一見もっともらしく見えますが、実際には両立しないことが多いのです。治るかどうかは医師でも予測が難しく、「治るかもしれない」というわずかな可能性のために延命治療が選ばれてしまいます。

6. パプアニューギニアの医師の言葉

著者がパプアニューギニアで出会った現地のドクターの言葉にハッとさせられます。
「歯が抜け、目が見えなくなって、足が弱くなって歩けなくなったら、それは死ぬ時だ」
この言葉には、死を特別視せず、老いの延長線上にある“自然な終わり”として受け入れる感覚があります。

7. 老いと死を拒む日本の姿勢

日本人だったら、こんな風に考えるでしょうか?
歯が抜ければ入れ歯を入れ、白内障になれば人工レンズを入れ、足が弱ればリハビリに励む。
私たちは「老い」や「死」に向き合うのではなく、それらを拒み続ける選択ばかりしているのではないでしょうか。

8. 本当に「百年生きたい」のか?

人生百年時代が賞賛されていますが、本当にそうでしょうか?
百歳まで生きられるというより、百歳まで“死ねない”社会になってはいないでしょうか?
治らない病を抱えながら、何ひとつ楽しめないままチューブに繋がれている状態で、私たちはそれを“生きている”と言えるのでしょうか。

9. 「死を知ること」は「生を選ぶこと」

「死を知ること」は、「よりよく生きること」につながります。
そして、自分がどう死にたいかを考えることは、自分がどう生きたいかを考えることでもあるのです。

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