「帰国子女って、自己主張が強くて、ちょっとキツそう」そんなイメージ、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
でも私がこれまで出会ってきたバイリンガルの人たちは、むしろ“とても優しい人たち”が多かった気がします。お年寄りにサッと席を譲ったり、誰かが困っていたら自然に声をかけたり、グループの中でも誰かひとりをのけものにしない空気をつくれる。そして、スポーツや音楽が得意だったり、自分を言葉以外でも表現できる力を持っている人が多い印象でした。
なぜそんな人が多いんだろう?
そう思って考えてみたとき、ふと思い当たったんです。きっと彼らは、一度「マイノリティとしての自分」を経験しているからじゃないか、と。
親の仕事や事情で、突然異国の地へ。言葉が通じない、文化も違う。輪の中に入りたくても、どう入ればいいのかわからない。日本にいれば当たり前だった“わかりあえる感覚”が、そこにはない。
言葉が通じないからこそ、「せめて音楽やスポーツなら通じるかも」と思って努力したり、ボディーランゲージでコミュニケーションを取ろうとしたり、相手の表情を一生懸命観察したり。
そうやって身についたのは、まず、“相手を思いやる視点や優しさ”だったのかもしれません。ことばの外側にある経験を通して、心を通わせる事が増え、比例して、語学力も上がっていったのだろうと。
そして思うのです。
語学って、本当は「文法や単語を正しく覚える」ことでは無く
「どうすれば相手と心を通わせられるか」を考えることからスタートするものなのだろうと。
そういう“コミュニケーションの本質”に触れた瞬間、「ただの勉強だった英語」が、少しずつ「自分の言葉」に近づいてくる。
「文法的にも発音的にも正しく話す」というのは、「間違えたら恥ずかしい」「間違ってたら恥ずかしいから、伝えなくてもいいか」というように、自分に視点が向いています。
「英会話」は、相手がいるものなので、
「文法は間違ってもいいから、気持ちや意見を伝えたい、心を通わせたい、喜んでもらいたい、役に立ちたい」という、相手を思う優しい気持ちは、それがZOOMであっても、相手に伝わります。
「間違ってるかも?」を気にするのではなく、目の前にいる人の気持ちに視点を向けれたら、英語はもっと、自分の中に根を下ろし、もっともっと続けたくなる気がします。
だからこそ、英語を学ぶということは、単なるスキルの習得、テクニックの習得ではなく――
「自分の殻を破り、他者とつながる力を育てること」そのものなのかもしれません。
言葉の正しさよりも、心のあたたかさこそが、世界とつながる最初の一歩であり、
「伝えたい」という想いこそが、英語を続けたくなる最大の原動力=継続のコツなのです。