夏に、佐渡の山中に残る坑道を歩いたとき、感じたのは統制された静けさだった。
江戸幕府の直轄地として国家の財政を支えた金と銀の山。規律の中で働く人々、奉行所の厳しい統制。今では観光ルートとして整備され、均整の取れた静けさが、当時の秩序を今に伝えている。
対照的に、今回訪れた四国の山中にある別子銅山跡では、自然と文明の痕跡が混ざり合っていた。
崩れかけたレンガの貯銅庫(写真)、蔦に覆われたトンネル。
そこには、江戸時代の鉱山文明が、ひっそりと残っていた。
金は国家の財源、銅は民の産業
佐渡金山は、まさに「国家の金庫」。
金銀は通貨の原料であり、幕府が直轄で管理した。経営は将軍直属の佐渡奉行、技術も人もすべて幕府の手の中で、民間が入り込む余地はなかった。
一方、別子銅山を経営していたのは住友一族である。
幕府の許可は得ていたものの、経営も労働も民間の手によって支えられていた。銅は金銀ほど政治的ではなく、むしろ産業と貿易を動かす素材だった。
銅がつないだ、世界との航路
別子で採れた銅は精錬され大阪へ運ばれ、長崎の出島からオランダや清へと輸出された。
中国では銅貨に、ヨーロッパでは銅鍋や銅鏡に生まれ変わり、江戸時代の日本を“世界経済”につなげていたのだ。
佐渡は孤島で、船に頼るしかなく幕府の直接管理が必要だったが、
一方、別子は潮流や波が穏やかな瀬戸内海に面し、海上輸送や商人の往来に恵まれていた。
山の上で銅を掘り、麓で精錬し、港から船で出す。
自然と地形の条件が、地の利が、民間の力による経営を可能にしていたのかもしれない、
そんな風に思った。
銅が灯した、近代の明かり
明治に入り、佐渡の金は次第に掘り尽くされていく。
そのころ別子の銅は、明治期以降、電気や鉄道、造船、建築資材として活用され、
まさに“新しい日本”を支える産業の基盤となった。
電線、機械部品、銅板屋根、そして貨幣。銅は日本の近代化の血液ともいえる存在だった。
さらに、精錬の過程で得られる副産物である硫酸や金・銀は、
後の住友化学や住友金属工業へとつながり、別子銅山の歴史は、単一の鉱山の物語にとどまらず、
日本の産業全体を形作っていった。
国家の秩序を支えた金と、民と産業を支えた銅、
目に見える鉱山の跡地から、時代を超えて経済や人々の営みを感じることができる。
大人の社会科見学のような旅は、若い頃には気づけなかった発見で満ちていた。