1975年のオリジナル版『新幹線大爆破』と、2025年の新作を見比べてみました。
約50年という時代の変化が、作品の細部に色濃く映し出されていて、ただのリメイクとは違う、深い社会的な意味を感じました。とくに強く印象に残った3つのポイントを、以下にまとめてみたいと思います。
1. 女性の描かれ方の変化
まず、一番大きく感じたのは、女性の描かれ方の違いです。
オリジナル版では、登場人物のほとんどが男性。犯人グループも、JRの現場スタッフも、警察もすべて男性で構成されていて、「男たちの社会」「男たちの生き方」の物語という印象が強く残りました。
女性の登場人物は、産気づいて新幹線内で出産する妊婦さんや、スナックのママといった“女性性”を強調する役割が中心。いわば、男性たちのドラマの外側から支える存在で、「しずかちゃん」のような、応援・癒やし役(内田舞ハーバード大学准教授の書籍にて、「しずかちゃん」役回りの解説)にとどまっていました。
一方、2025年版では、新幹線の運転士に女性が登場し、犯人の中にも女性がいます。彼女たちは単なる補助的な立場ではなく、物語の中核で行動する「主体」として描かれており、明らかに時代の変化を感じました。
女性視聴者の共感を広げるためのキャスティングという面もあるかもしれませんが、それ以上に「女性の自立」や「役割の変化」が50年かけて少しずつ進んできたことを実感させられました。
2. 「死」の描かれ方の変化
そして次に感じたのは、「死」の描かれ方の違いです。
オリジナル版では、犯人グループは全員死亡。中でも高倉健演じる主人公の死に方には、「桜散る」ような潔さがありました。
無実の乗客が乗る新幹線に爆弾を仕掛けるという「悪いこと」をしたのだから、最後は命をもって償う。昭和の日本人の美学、あるいは滅びの美学のようなものがそこにはありました。
対して2025年版では、犯人にも「事情があったのだから」とする描写がありました。爆弾を仕掛けるという重大な犯罪を犯したにもかかわらず、「潔く死ぬ」方向には物語は向かっていません。
現代は、“罪”を一方的に断罪するよりも、「背景や理由に目を向ける」時代なのかもしれません。善悪が単純ではない現代社会では、「死んで終わり」という決着がリアリティを持たないのかもしれない――そんな印象を受けました。
3. テクノロジーがもたらす「個人化」と「組織化」
そして3つ目に感じたのは、テクノロジーの進歩が社会構造に与える影響です。
1975年版では、ダイナマイトを人の手で仕掛け、公衆電話から電話をかけ、警察は黒電話で応対し、身代金は現金でやりとりされます。非常にアナログで、犯人グループも上下関係があり、人間関係に“家族的なつながり”すら感じさせる描写がありました。
ところが2025年版では、犯人はSNSを通じて爆弾の知識や技術を得ており、そこに感情的なつながりはありません。全体として、犯行が「個人の孤立した行為」として描かれていました。
また、JR東日本の組織もテクノロジーの進歩によってより精密に「組織化」されており、現場の人間は遠隔の指令に従い、組織の一部として動いていきます。
上層部の指示が現場の判断よりも優先される構造があり、柔軟な判断や個々の裁量が入り込む余地はほとんどありません。全体で一丸となる姿には、日本軍的な統制や、組織の論理が色濃く感じられました。
対してオリジナル版では、現場の判断で動く場面も描かれており、人間的な判断や臨機応変な行動が可能な空気がありました。
テクノロジーの進化は、個人を孤立させる一方で、組織をより硬直化・精密化させる。そんな今の社会の両面が、物語の中に反映されていたように思います。
まとめ
『新幹線大爆破』という同じテーマを50年越しに描いた2つの作品を通じて、社会の変化が静かに、しかしはっきりと伝わってきました。
- 女性が支える存在から、行動する主体へ
- テクノロジーが人間関係と組織の在り方を変える
- 「死」に対する社会のまなざしの変化
1975年版に込められた“昭和の覚悟”と、2025年版に込められた“現代の問いかけ”。
リメイクとは、ただ映像を新しくすることではなく、時代の問い直しでもあるのだと感じ、とても興味深いものでした。