父の急激な老化
ここ1年ほどの間に、私の75歳の父の老化が急激に進み、この8月からはいわゆる「寝たきり」の状態になりました。日々、変わっていく父の姿を前にして、「老いる」とはどういうことなのか、あらためて考えさせられます。
誤嚥性肺炎がきっかけ
きっかけは「誤嚥性肺炎」でした。飲み物を飲み込む力が弱まり、気管に入って息ができなくなってしまったのです。自分で飲んだり食べたりすることができなくなりました。
もし医療が発展していない時代であれば、この段階で命を落としていたかもしれません。
救急車で病院に運ばれ、器官に入ったものを吸引でき、大事には至りませんでした。医療のおかげで助かってありがたい、と思う同時に、その方が、「寝たきり」にはならず、本人にとってはラクだったのではないか、とも、正直思います。
医療がもたらす「延命」
現代の医療は、点滴や酸素呼吸器によって命をつなぎ、「生かされてしまう」現実があります。簡単には死なせてもらえないのです。
70代を越えたときに、例えば、「点滴や酸素呼吸器は使わないで」と、事前に伝えておくのは、よほどの医療や介護の経験や知識が無いと、できない申告だと思います。
『人はどう老いるのか』を読んで
そんな思いを抱えながら読んだのが、久坂部羊さんの『人はどう老いるのか』です。冒頭にこんな言葉があります。
「天はいつまでも若い人を造らず、いつまでも死なない人を造らず。」
ーーー誰もが必ず老い、やがて死を迎える。
しかし、現代の日本では、死はタブー扱いされ、自然死を肯定する様な発言はできませんし、話し合う場も少ないく、自然な死を迎える準備をきちんとする人は多くないと推測します。
「元気で長生き」という矛盾
多くの人が「元気で長生き」を望みますが、そこには論理的な矛盾があります。長生きするということは、つまり老いることでもあり、いつまでも元気でいられるわけではないからです。
就職に「就活」があるように、「老い方」「死に方」の進路相談があってもいいのではないか。そんなことを考えさせられます。
老いがもたらす変化
老いれば、体も心も変化していきます。
- 視力や聴力が落ちる
- 言葉がうまく出なくなる
- 動作がゆっくりになり、体が震える
- 好奇心や体力が失われ、関心が薄れていく
- 愚痴や心配が増え、嫉妬やわがままになる
- 着替え、食事、排せつ、入浴なども難しくなり、最後は寝たきりになる
老いを否定する社会
それなのに現代社会は、老化そのものを否定しがちです。
「いつまでも若々しく元気に」「介護いらず医者いらず」
サプリや薬で老いを“治す”かのような宣伝が溢れています。
病気ではなく、老化現象だけれど、病院にいって「治そう」とします。
無理に抗わないという知恵
けれど本当に大切なのは、無理に抗わないこと。老いは治すものではなく、自然な流れとして受け入れるものです。
「上手に老いる」とは、いつまでも元気を目指して頑張ることではありません。むしろ、老いの実例を見聞きし、心の準備を重ねながら、老いることを受け入れ、穏やかに過ごすこと。
死に方の進路相談=生き方の進路相談
この本にもありましたが、私自身は「自由に生きて、70歳前後になったら医療にはかかわらずに生きていきたい」と思います。医療や病院や医者は万能の神ではありません。
病院に行かなければ、長時間待たされることもなく、つらい検査や治療を受けることもなく、検査の結果に一喜一憂することもない。その分の時間やお金や体力を、自分の好きなことに使いたいのです。
結局のところ、死に方の進路相談は、生き方の進路相談なのだと思います。死に方を強く意識することで、どう生きるかをさらに深く考え、行動を変えることになるのです。
「どう老いて、どう生きたいですか?」