「死に時に死なせてあげることこそが、本当の親孝行」
― 老いと向き合う、読書からの気づき ―
気づきの多い本ですが、特に心に残った言葉がありました。
「死に時に死なせてあげることこそが、本当の親孝行」
テレビや雑誌では、「90歳で現役の医師」「100歳でもマラソン完走」といった“奇跡の高齢者”の話題をよく目にします。
もちろん、それは本当にすごいこと。でも、そうした人たちはごく一部であり、「スーパー老人」は例外中の例外。
多くの人にとって「老い」は静かに、そして確実に進んでいく。
けれども、医療が進んだ現代では、私たちはどこかで「努力すれば、治療をすれば、予防すれば老いを遠ざけられる」と信じてはいないでしょうか。
例えば、骨骨粗しょう症、どんなに治療をしても薬を飲んでも年寄りの骨が丈夫になったりしません、幾ばくか数値は上がるかもしれませんが、転倒すれば骨折します。
平均寿命が80歳を超えている今、「70歳はまだ元気で当たり前」と思い込んでしまいがちです。
私自身も、父に対してそうでした。
けれども、父がその「平均」よりもずっと早く、徐々に老いが進んで(当時は老いではなく病気だと信じていましたので、病気が治らず通院の度に落ち込んでいました)要介護になった姿を見て、痛感しました。
老いは、いつ始まるか分からないし、本人の努力や予防や治療でどうにかできるものではない。
それは、自然の摂理なのだと。それが現実なのだ、と、
この本を読んで改めて気づかされます。
本の中で著者は、「余命半年のエクササイズ」を紹介していました。
もし自分や家族が「余命半年」と言われたら――どう生きるだろう?
きっと、しょうもない夫婦喧嘩もしなくなるし、両親や友人と喧嘩別れしたままだったら、「ごめんね」と連絡したくなる。
“どう生きたいか”、“誰とどう半年を過ごしたいか”を、真剣に考え始めると思います。
そんなふうに、「死」を遠くのものとしてではなく、“人生の延長線上にある自然なもの”として捉えたとき、人の生き方や関係性は少しずつ変わっていくのかもしれませんし、
「老い」を予防しようと薬やサプリを飲んだり、生真面目に通院し続けるより、「老い」を受け入れる方が、ずっと人生がラクになりそうです。
そして特に印象的だったのが、「死に時に死なせてあげることこそが、本当の親孝行」という言葉。
老人は、乾いて死ぬのが一番苦しまない、と著者は言います。
それなのに、医療が進んだ現代に生きる私たちは「自然死=不幸な死」
「苦しくても1日でも長く生きる様できる限り延命する=親孝行」と思い込んでしまう。
けれども、高齢で無理な延命治療で、本人が苦しいかもしれないのに1日でも長く生きる、が本当に幸せな最期なのだろうか?
それを強く望む家族ほど、「元気なうちにもっと何かできたのでは」という後悔を抱えているようにも見えます。
できる限りのことをする――その思い自体は尊いけれど、それが本人にとっての幸せとは限らない。
もし親孝行できなかったことを後悔しているならば、
むしろ「親孝行の時間が無いくらいに、自分の人生を楽しんだ」と思って、
「死に時に死なせてあげる」ことこそが、「延命治療で苦しませながら1日でも長く生かす」よりも、
本当の意味での優しさであり、親孝行なのかもしれない、
そんな風に考えを巡らせる本でした。