「平穏死」とは、枯れるように死ぬこと。
苦痛をできる限り抑えながら、自然の経過に身をゆだねて迎える最期のかたちを指します。
その反対は「延命死」。
最期の最後まで人工的に命をつなぎとめようとし、チューブや点滴につながれたまま、苦しみながら亡くなっていく状態です。
著者の長尾医師は、「平穏死」という言葉が“死”を連想させ、安楽死と混同されやすい点を指摘しています。
安楽死は、薬などを使って人為的に死期を早める行為であり、日本の法律では殺人または殺人ほう助にあたります。
一方、平穏死は死期を早めるものではなく、自然の流れに任せる医療の姿勢です。
現状の病院医療では、本人の尊厳よりも「一日でも長く息をしていること」が重視される傾向があります。
そのため、高齢者で、苦痛があっても検査や点滴が続けられ、鼻や口にチューブを入れられたまま亡くなる方も多いのが現実です。
また、理想とされる「ピンピンコロリ」で亡くなる人は、実際にはわずか 5%。
95%の高齢者は、がん・臓器不全・認知症など、なんらかの療養期間を経て、最期の時を迎えます。
著者はこう語ります。
「患者さんのQOL(生活の質)×寿命を最大限に伸ばすこと。それが、積極的な医療を控えることなら、その方がよい。」
酸素吸入器、点滴、胃ろう――。
終末期医療では「当たり前」と思われがちなこれらの治療をすべて止める。
「チューブに縛られて苦しみながら死ぬまで闘う」のではなく、穏やかに最期を迎える。
その方が、圧倒的に苦痛や不快が少ないのだといいます。
生活しているうえでは、「死」に出会う機会はほとんどありません。
そのため、どのように死を迎えるのかについて考えることは後回しになり、家族の間でも話題にしにくいまま生きてきたように思います。
私自身も、父の在宅介護が進むなかで、「食べること」「移動すること」がひとりではほとんどできなくなっていく寝たきりの姿を前に、
「生かされること」が本当に尊厳ある状態なのかと疑問を抱くようになった事で、
このテーマの本を読むようになりました。
もし自分が遠く離れた場所に住み、年に1回会う程度の関係だったなら、
「1日でも長く生かしてください!」と病院の先生に懇願していたかもしれません。
それが結果的に父を苦しめることになっていたかもしれないと思うと、ぞっとします。
何歳から、どういう状態が、「終末期」なのか、個人差もあって定義が難しいけれど、多様性の時代に、この「平穏死」の考え方も広まって、選択できるようになったらいいと思う。