両替が無くなった日
香港へ行ってきました。今回は、日本にいる間にモバイルオクトパスカードに香港ドルをチャージしておいたので、空港に着いたらそのまま電車に乗って、両替もせずにスムーズにホテルへ直行。
改めて、「合理性」をとことん優先する街だな、と感じました。
https://ontrip.jal.co.jp/chn/17752519
交通も本当に多彩で、電車、トラム、バス、フェリー、タクシー、そしてUberのような配車アプリまで、移動手段に困ることがありません。
この街の設計思想は、日本とは少し違っていて、とても興味深かったです。
そんな香港を歩いていて、先ず、気づいたのが「街を走る車の違い」でした。
いろんな国の車が走る香港
香港では、道を走る車がとても多様。中国車、韓国車、日本車、ドイツ車、アメリカ車…とにかくいろんな国の車が当たり前のように走っていて、しかも違和感がない。
車を選ぶ基準が、「どこで作られたか」ではなく「中身」なんだなと感じました。
自動車産業を持たない香港だからこそ、選択が自由なんだと思います。性能や価格、デザインといった“中身”で素直に選ぶ。そういう姿勢が街のあちこちに感じられて、すごく開かれている印象を受けました。
日本ではなぜ韓国・中国車見かけない?
一方、日本では、韓国車のヒュンダイや中国のBYDは、ほとんど見かけません。
世界ではすでに日産やホンダを販売台数で上回る勢いなのに、日本の街ではその姿があまり見えない。これはちょっと不思議です。
まずは、国内メーカーの強さ。トヨタ、ホンダ、日産など、日本国内には信頼と実績のあるメーカーが揃っており、「とりあえず国産で十分」という消費者の意識が根強い。
加えて、韓国車・中国車に対しては、情報の少なさと、過去の印象からくる“漠然とした不安”も残っているように感じます。
さらに深掘りすると、日本と韓国・中国との間にある歴史的・政治的な感情も、無意識のうちに購買行動に影響しているのかもしれません。
“ライバル意識”や“国産志向”が、あえて外国車を選ばないという形で表れている。つまり、選択の背後には、「技術」や「性能」、「デザイン」といった「中身」だけではない、複雑な感情があるのです。
車は、単なる移動手段ではなく、その国の技術力・経済力・ブランド力を反映した象徴でもあります。その土地の国際的なスタンスや、人々の意識が見えてくる。
開かれた香港は、“どこの国のものか”ではなく、“どれが便利か・合っているか”で選ぶ。
対して内向きな日本は、“知っている安心感”と“目に見えない感情”が、無意識のうちに選択肢を狭めているのかもしれません。
住まいから見える合理性と文化の違い
滞在中に感じたのは、香港の住宅事情もまた、とても合理的だということ。
たとえば、マンション(フラット)の間取り。ドアを開けたら、すぐにリビングやキッチン。日本のような「玄関」はなくて、いきなり“部屋”から始まります。
「靴を脱ぐ文化がない欧米スタイルの影響かな?」とも思ったんですが、実際には靴を脱いで暮らしている人も多くて、その靴や傘はドアの外の共用廊下に置いてあるのが香港流。
“限られたスペースを1cmでも広く使いたい”という姿勢がよく分かります。
キッチンにも合理性がぎっしり
キッチンもまた面白くて、洗濯機、乾燥機、電子レンジ、オーブン、食洗機まで、基本的な家電は作り付け。
狭い空間にきっちり収めてあって、移動や引っ越しのときにもラクそう。働く女性が多いのもあって、家事の手間を減らす設計もよく考えられてるなと感じました。
日本だと、家電は自分で買って持ち込むのが当たり前。でもサイズが合わなかったり、設置場所がなかったりして、引っ越しのたびに悩みます。
その点、香港は**「移動前提の都市」**。海外から働きに来る人も多くて、暮らしやすく整っている印象です。家は一生もの、や、賃貸か持ち家か、という議論も、日本独特なのかもしれないと感じました。
でも家賃は…びっくり価格
ただし、家賃や住宅価格はかなり高め。
狭い土地に高層マンションがぎゅうぎゅうに建っていて、60㎡くらいの部屋でも1億円以上なんてザラ。
家賃も月50万円以上する物件が少なくないそうです。
高層ビルが“ペンシル”みたいに縦に伸びているのも、限られた土地をどうにか有効活用するためなんですね。
英語が“当たり前にある”社会
香港を歩いていて感じるのは、とにかく“言語のバイリンガル感”が自然ということ。これはやっぱり、歴史的にイギリスの統治時代があったことが大きいですよね。
英語は既に“外から来た言葉”ではなく“共にある言葉”コミュニケーションのツールとして扱われていて、行政や教育の現場でも当たり前に使われています。
一方、日本の英語教育は……
日本での英語教育は、「学びの目的」が違うなと感じます。
テストのため、受験のため、資格のため──目的がどうしても“内向き”になりがちで、**「英語をツールとして使って誰かとつながる」**という発想は、まだまだ少数派。
そして、日本では英語が“外から来た特別な言語”という感覚が今も根強く残っています。
英語が苦手だと口にする人が多いのも、日常の中で必要とされる機会が圧倒的に少ないから、というのを、香港と比較すると実感します。
ただ、そんな日本にも素敵な面があります。
たとえば、千年前の和歌や古典の一節が、現代の私たちにもある程度意味が通じて、共感できること。1000年前の日本人も、恋だの愛だの、悩んでたと、現代でも共感できるのはとても素敵だと思います。
これは、日本が、香港の様に他国からの支配を受ける事が少なく、日本語という言語がとても長い時間をかけて、ゆっくり変化しながらも“積み重ねてきた”文化を持っているからなんですよね。
終わりに・・
香港のような都市は、人の出入りも多く、文化の変化も速い。言葉の使われ方もどんどん変わっていきます。そのスピード感が、逆に「合理的な街のデザイン」や「世界とのつながり」を生み出しているようにも感じました。
香港は、「外に向けて開く」ことを前提としていて、
日本は、「中でしっかり育てる」ことを大切にしている。
どちらが良い・悪いという話ではなく、それぞれの文化や歴史が反映されているだけ。
日本の外を少し歩いてみて、“自分の当たり前”を少しずらしてみる体験ができた、と思っています。