人間らしい最期って、なんだろう?
一人で歩くことが困難になり、視力が衰え、耳も遠くなり、本や音楽の楽しみが減る。
味覚は鈍くなり、歯もなくなって「美味しい」が分からない。
関節だけでなく、まぶた、咀嚼、会話のための筋力まで落ち、話すのもやっと。
食べることはようやく一人でどうにかできるものの、排泄の世話、陰部洗浄、口腔ケアを他人の手に委ねる。
そんな姿を前に、「このまま何年もこの状態が続くのは、人間として好ましく、尊厳ある状態なのか、父にとって本当に幸せなのか?」と自問する。
いたるところにある“長生き支援”
町を歩けば、デイサービス、特養、サ高住――
高齢者支援の施設やサービスがあふれている。
誰もが精一杯生き、やがては老いと苦しみを抱えて「人生100年時代」を生きる。
メディアは「長寿社会の到来」「医療の進歩」「活き活きシルバーライフ」と持ち上げる。
でも、本当の現実は?
「百歳まで生きられる」のではなく、「百歳まで死ねない」
「百歳まで生きられる」ではなく、「百歳まで死ねない」時代。
その根底には、「死を受け入れず、延命こそ善」という価値観のみ、があるように思う。
たとえ本人の尊厳や幸せがそこにないとしても――。
健康に気をつけた人ほど、コロリとは死ねない
最近こんな話を読んだ。
「若いうちから不摂生だった人ほど、心筋梗塞や脳卒中でコロリと死ぬ。
不幸にして死ねなければ、麻痺などの不自由さが残る。
逆に、健康を意識して内臓が丈夫だと、コロリとは死ねず、長く苦しむこともある」と。
じゃあ、どうすりゃいいの?何をもって「幸せな死」と言うのか、考えさせられる。
あの「おばすて山」の話が、少し違って見える
子どもの頃、「おばすて山」はなんて残酷な話なんだと思った。
でも今は、人間には必ず“死”があることを受け入れる、
つまり「どこかに線引きをする」ための話だったのではと感じる。
人間らしく生きて、そして、死ぬ
だから私は思う。
好きなものを食べ、飲み、国内外行きたいところへ行く。
とてもシンプルだけど、それが、「人間らしく生きる」ということではないか。
そして、自分自身の「人間らしい死に方」を、考えておきたいと思う。